HSPについて、太宰と私

 

私はHSPである。

それは、とても敏感な人々のことで、人口の20パーセント程いると言われているらしい。

人の感情や、音、匂い、センス等に敏感で、敏感すぎて、様々なことに反応してしまうため、疲れやすく気が滅入ってしまったり、考え込みやすいと言われている。程度や対象は個人差があるという。

 

私がこの概念を知ったのはごくごく最近である。

たまたま自分の疲れやすい体質に悩んでネットサーフィンをしていたら見つけた。

 

HSPに関する本を買って読むと、これは私の説明書なのだろうかというくらい、私のことが書いてあった。

 


診断を病院で受けたわけでは無いが、私は自分がそれであることを確信している。

 


発達障害などと違い、病院から診断が下ることは確か、なかったか、あったとしても何の役にも立たないので、以降も病院に行く気は無い。

 


最近悩んでいることもあって、HSPの職業について少し考えた。

 


適職は、クリエイティブなことか、もしくは淡々と片付けていく単純作業、清掃などである。

正直、単純作業なんかは、得意かもしれないが、人間なら誰でもできるから適職と言われてもピンとこない。誰でも良いけれど、本人の気持ちが楽な仕事ということである。

 


現実的に考えると、クリエイティブだけで生計を立てるのは絶望的だ。

 


私もHSPの特徴に漏れず、音楽や、芸術、作文といったことへの才能は人並み以上にはあったと思う。

学生時代は学年一位を取れることもよくあった。

 


しかし、あくまで「人並み以上」なだけで、プロ並みではない。

 


もしプロ並みであれば、すでにどこからかスカウトが来て、こんなしがないサラリーマンなんかしていないはずである。

 

太宰を好きなので、例に挙げるが、
太宰治人間失格の主人公は、読む限りHSPと思われるが、彼は絵の才能がプロであった。

 


太宰自身を表している小説だとすると、太宰はHSPという先天的クズだったかもしれないが、小説を書く才能は世界レベルの超人だった。

 


私は彼は、生きているべきHSPなのだと思う。

生きる価値があり、必要とされる人間である。

 


しかし私は、彼ほどの才能がない。

きっと彼ほどに敏感でもない。

中途半端に敏感さを与えられ、苦しみの中に生きている。

 


私は生きる価値のないHSPである。

中途半端な才能など、誰かに買ってもらえるはずもなく、ただ日々に怯え、モタモタして人を疲れさせ、それをありありと自分でも察知し、苦しみに耐え抜くだけの人生である。

 

 


死にたい。

 


この人生で小学生から何度そう思ったか分からない。

しかし、死ねないのだ、怖くて。

そしてどこかに希望を捨てられなくて。

 


こんな苦しいだけの人生なんか、早く辞めてしまいたい。楽になりたい。

毎日のように思いながら、ただなんとなく夜には寝て、朝目覚めてしまう。

 


私は仕事に喜びを感じることもできず、誰かの役に立っていると心から感じられることもなく、ただ悲しいだけの人生をこれからも生きるだけなのに。

 


死にたい。

死にたい。

 


「じゃあ死ねば?」

 


「死んでも誰も困らないよ」

 


その通りだと思う。その通りなはずなのに、なぜかこの人生を捨てる気にどうしてもなれ

ないのだ。

 


生きていれば、いつか何か見つかるかもしれない。

 


そんな根拠のないかすかな希望を捨てられないのは、自殺者よりも惨めである。

 

 

 

人間失格

 

 

 

太宰治なんかより、私みたいな中途半端野郎が言われるべきである。

私はこれから先も、誰のことも楽しませてやることができない。

みんなと同じような人生に、喜びを感じながら生きることもできない。

 


思い切って死んでしまうことさえできない。

 

 

 

最低だ。

 


本当に生きている価値がない。

 


心からそう思うのに、私はまた今夜も何も考えずぐっすりと寝てしまうのだ。

そして明日の朝、「また始まったよ、嫌だなぁ」と思いながらも会社に行く準備をして、満員電車に乗って行くのだ。