両親への愛

私には恋人がいる。

 


心から私を愛してくれる人だ。

 


彼を信頼している。

 


私は彼の前で弱音を吐くし、彼の前で愚痴も言うし、病んだことも言う。

 


しかし、親の前ではそういったことができないことに気がついた。

 


もちろんたまには弱音も吐く、愚痴も言う。ただ、それは親が賛同してくれそうなことにだけである。

 


会社辞めたいとか、死にたいとか、生きている価値がないとか、そう言うことは言えない。

 

なぜなら、私に価値がないということは、産んだ両親を否定することになるからだ。

 

両親は立派な人だ。

「産んでくれた人」だ。

こっちからしたらありがた迷惑なのだが、親を否定することなんか許されない。

 


産み落とした私がたまたま遺伝子ガチャに負けた不良品のゴミだっただけで、もしあと何回かガチャのチャンスがあれば、もっといい子供が生まれたに違いないのだ。

 


私がゴミなのは両親のせいではない。

くじ運がなかっただけだ。

 


両親には、大学まで出させてもらい、受験料も授業料も、払ってくれた。

 


「会社辞めたい」

 


「バイト生活に戻りたい」

 


「死にたい」

 


「生きている価値がない」

 


こういったことを言うことによって、私に投資した金の振込先がゴミ箱であったことを、教えてしまうことになる。

 


私に投資した金の全ては、私が社会人として立派になり、将来は両親を支えてあげられるためなのだから、ショックは大きいはずだ。

 


両親は、私を信用している。

わたしが家で寝ているのは、のんびりしているだけだと思っている。


社会的通念からそれほど外れていないと思っているだろうし、つらいことにもっと耐えられるはずだと思っている。

 


というか、私の「つらい」は世間では「余裕」だから、私のキャパが狭いのがいけないのである。

 


こんなダメ人間に生まれてごめんなさい。

 


きっと私はこれまでも、両親に残念がられることはあったと思う。

 


両親のように、コミュニケーションは上手にできず、いつもぼーっとして集中力がなく、スポーツも勉強も、それほどできず、自分の子でなければまず目をかけようとはならないダメな子供であった。

 


本当に自分の子供だろうかと疑われてもおかしくない。

 

 

 

待望の一人娘がそんな奴だったことを、経済力でなんとかリカバリーし、真っ当な道を進めるように援助してきた苦労を、私は知っている。

 

私には本当はそんなにしてもらう価値はないのにと考えると本当に申し訳なさすぎて、いつのまにか私は親に心を開けなくなった。

 


なんでも話していたのは、保育園時代までで、それからはずっと、普通になりきれず期待はずれだったことへの罪悪感を抱え、なんとか隠そうと取り繕っていた。

 


私が先天的出来損ないであることは、早い段階で多少は気がついていたかもしれない。

 

しかし、私の学校生活を先生に聞いたとしても、聞くほどそんなに悪くはないだろうと思っていただろう。

 


なんとか世間体を繕ってきたのに、今更社会的にもゴミクズになったら、両親は、今度こそ子育てに失敗したと思うだろう。

 

世間からもそう言われるだろう。

 


そんなことは避けなければならない。

両親を愛しているからせめて、私はその期待に最低限応えるために、社会人を止めることはできない。

 


私がつらいと思っても耐えるのは、全て、親のためである。

親の失望が私は、何よりも怖い。

 

人生の責任が重すぎて

これから人生、淡々とやっていくしかないんだろうか。

どうせ楽しみなんてない。

つまらない仕事して、食って寝て終わり。

 


世の中にある楽しいことなんか、苦しいことに飲み込まれて、すぐに忘れる。

束の間の夢だ。

 


早死にしたい。

今すぐなんか原因不明の昏睡にでもなって、早く死んだらいい。

 


私なんか、というか、人間自体生きている価値がない。

 


生きていたって、誰も認めてくれない。

一生懸命頑張ったって、褒めてくれない。

生きてて当たり前、プラス何かをやるのは当然、賞賛を求めるのは甘え。

 


誰かのエゴで勝手に産み落とされ、社会に染めるための教育を施され、もう赤ちゃんじゃないんだから、もう小学生じゃないんだから、中学生じゃないんだから、もう大人なんだからと、甘えることをいつになっても許されず。泣くことも許されず、ただ自立しろと言われる。

 


好きで生まれたわけじゃない。

 


誰も頼んでない。

 


生きたくても生きられない人もいる?

そうですか。それは大変ですね。

でもだからって私が生きていて、その人のためになるんですか?

私は生きたくないのに生かされちゃってるんだからそれも大変ですよ?

 


それって、私がテレビのスターをみて、あんなに美人だったら、才能があったらと羨んでるのと何も変わらないんじゃないの?

彼らなりに大変なこともあるんだろうけど、それを知らないから悠長なことが言えるの。

それとも生きていれば何かを残せる自信があるんですか?

だったらそんな希望を持てていることの方がよっぽど羨ましいですよ。

その強さがあるなら、残りの人生でできることを見つけるのだって余裕なんじゃない?

 


私みたいな人間のゴミは死んだ方が良い。

さっさといなくなって苦しみから解放されたい。

 


この人生で幾度となく思った、「死にたい」という言葉を、否定しかされない現実。

 


否定するならせめて、何が楽しくてこれから生きればいいのか教えてよ。

それすら自分で考えろと突っぱねるくせに、簡単に「死ぬなんて最低だ」とか言わないで。

 

 

 

甘えて生きたい。

 


それはだめなんだろうか。

誰かに頼ってはいけないのだろうか。

弱音を吐いたり、ネガティヴになることは悪なのだろうか。

 


成人したからには、自分のことは自分の責任。全部背負って1人で立っていなければならないのだろうか。

 


きっとそうなのだ。

 


この世はそういう仕組みなのだ。

それを打破する方法はない。

 


私はポーカーフェイスでまだ立てている。が、心に余裕はない。

 


世間は今日も言う。

 


まだ大丈夫じゃん。

そんなことでつらいなんて甘えだよ。

人のことも考えなよ、みんなつらいんだよ。

 


私は思う。

みんなつらいなら、やめればいいのに。

誰も頼んでない。どっかから作られた空気を読んでそうしているだけじゃないの。

 


でも言えない。

私のような思想はこの世界ではゴミだから、KYだから、今日も何も言わず、平穏なふりをする。

 


私も同罪なのかもしれない。

 

 

 

HSPについて、太宰と私

 

私はHSPである。

それは、とても敏感な人々のことで、人口の20パーセント程いると言われているらしい。

人の感情や、音、匂い、センス等に敏感で、敏感すぎて、様々なことに反応してしまうため、疲れやすく気が滅入ってしまったり、考え込みやすいと言われている。程度や対象は個人差があるという。

 

私がこの概念を知ったのはごくごく最近である。

たまたま自分の疲れやすい体質に悩んでネットサーフィンをしていたら見つけた。

 

HSPに関する本を買って読むと、これは私の説明書なのだろうかというくらい、私のことが書いてあった。

 


診断を病院で受けたわけでは無いが、私は自分がそれであることを確信している。

 


発達障害などと違い、病院から診断が下ることは確か、なかったか、あったとしても何の役にも立たないので、以降も病院に行く気は無い。

 


最近悩んでいることもあって、HSPの職業について少し考えた。

 


適職は、クリエイティブなことか、もしくは淡々と片付けていく単純作業、清掃などである。

正直、単純作業なんかは、得意かもしれないが、人間なら誰でもできるから適職と言われてもピンとこない。誰でも良いけれど、本人の気持ちが楽な仕事ということである。

 


現実的に考えると、クリエイティブだけで生計を立てるのは絶望的だ。

 


私もHSPの特徴に漏れず、音楽や、芸術、作文といったことへの才能は人並み以上にはあったと思う。

学生時代は学年一位を取れることもよくあった。

 


しかし、あくまで「人並み以上」なだけで、プロ並みではない。

 


もしプロ並みであれば、すでにどこからかスカウトが来て、こんなしがないサラリーマンなんかしていないはずである。

 

太宰を好きなので、例に挙げるが、
太宰治人間失格の主人公は、読む限りHSPと思われるが、彼は絵の才能がプロであった。

 


太宰自身を表している小説だとすると、太宰はHSPという先天的クズだったかもしれないが、小説を書く才能は世界レベルの超人だった。

 


私は彼は、生きているべきHSPなのだと思う。

生きる価値があり、必要とされる人間である。

 


しかし私は、彼ほどの才能がない。

きっと彼ほどに敏感でもない。

中途半端に敏感さを与えられ、苦しみの中に生きている。

 


私は生きる価値のないHSPである。

中途半端な才能など、誰かに買ってもらえるはずもなく、ただ日々に怯え、モタモタして人を疲れさせ、それをありありと自分でも察知し、苦しみに耐え抜くだけの人生である。

 

 


死にたい。

 


この人生で小学生から何度そう思ったか分からない。

しかし、死ねないのだ、怖くて。

そしてどこかに希望を捨てられなくて。

 


こんな苦しいだけの人生なんか、早く辞めてしまいたい。楽になりたい。

毎日のように思いながら、ただなんとなく夜には寝て、朝目覚めてしまう。

 


私は仕事に喜びを感じることもできず、誰かの役に立っていると心から感じられることもなく、ただ悲しいだけの人生をこれからも生きるだけなのに。

 


死にたい。

死にたい。

 


「じゃあ死ねば?」

 


「死んでも誰も困らないよ」

 


その通りだと思う。その通りなはずなのに、なぜかこの人生を捨てる気にどうしてもなれ

ないのだ。

 


生きていれば、いつか何か見つかるかもしれない。

 


そんな根拠のないかすかな希望を捨てられないのは、自殺者よりも惨めである。

 

 

 

人間失格

 

 

 

太宰治なんかより、私みたいな中途半端野郎が言われるべきである。

私はこれから先も、誰のことも楽しませてやることができない。

みんなと同じような人生に、喜びを感じながら生きることもできない。

 


思い切って死んでしまうことさえできない。

 

 

 

最低だ。

 


本当に生きている価値がない。

 


心からそう思うのに、私はまた今夜も何も考えずぐっすりと寝てしまうのだ。

そして明日の朝、「また始まったよ、嫌だなぁ」と思いながらも会社に行く準備をして、満員電車に乗って行くのだ。

 

会社について

私は、とある会社で働いている。

大企業とまでは言えないが、知っている人は知っている、それなりにイケてる中小企業である。

私はこの会社に入りたかった。そして、運良く入社させていただくことができた。

 

四月から、社会人生活が始まった。

朝、決まった時間に行き、決まった仕事をやり、夜は長く残っていれば偉いような、いわゆる日本のサラリーマンとはこういうものなのだという生活である。

私はどうしてもこんなルーティーンに馴染めないでいる。

 

消去法で、自分としてはマシな業界を選んだつもりである。しかし、実際私のやりたいことなんか、そこにはなかった。

話を聞いていると、みんなそんなものは特にないようなのである。

 

何が面白くてみんな働いているのだろう。

給料のために、家族を養うためにだろうか。

その給料とやらのために消えているあなたの大切な時間はそれで良いのか。

人生の大半を会社に費やしている、その行為は、本当に有意義なものなのだろうか。

金を得ることは、若い月日を会社に捧げてまで大切なことなのか。

わからなかった。

 

忙しければ、生活が苦しければ、そんなこと忘れられると、ある人に言われた。

しかしそうだとしたら、それこそもっと不幸ではないのか。

目先の安定のためにあくせく働いて、考えることを忘れ、生きるため、食べるために働く。それは知能を持った人間の生き方と言えるだろうか。

シマウマを一日中追いかけ続けるハイエナと何が違うのか。

 

人生の先輩たちは、会社のために頑張ってもらわなくちゃと言うが、会社とはなんだろう。

社長のものだろうか。

社長のために頑張っているのか。

 

いや、社長はほとんど遠くからしか拝見したことがなく、おそらく私の名前も覚えてはいない。そもそも、今の社長は設立者でもなんでもない。会社とはなんの関係もなく、どっかからやってきた優秀とされる人間である。

社長もまた、過去にはどこぞの会社の中で誰かに使われてきた。

トップになった今も、全てが自分の思い通りにいくはずもなく、会社のために色々なものを犠牲にしているはずなのだ。

だとすると、会社は社長のものではない。

 

会社は誰のものなのだろう。

そこに貢献することで、誰が得をしているのだろう。

 

月々何十万ともらったところで、私の若さは取り戻せない。

こうやって考えた結果、私はどうしても会社を辞めたくなってしまうのだ。

 

 

 

 

子供が欲しくないって冷たい?

私は子供は欲しくない。

しかし、女性の多くは子供が好きである。

いつかは結婚して子供が欲しいなーって思ってる人が大半である。

それについて否定するつもりはない。

むしろ、そう思えることは素晴らしいことであり、心から羨ましい。

 

私は子供が欲しくない。むしろ電車の中にいるとうるさいし、優先席でもないのにドヤ顔で前に立ってくる妊婦を見ると控えめに言ってイライラする。

 

自分勝手で未熟な人間と言われたら返す言葉がないのだが、私なりに、なんでこうなってしまったのかを分析してみた。

 

小さい頃からこんなんだったわけではないのだ、多分。結婚して子供を産んでと言うことに抵抗のなかった時代はたしかにあったはずだった。

 

まあこんなにひねくれてしまった原因は、端的に言うと、虐められたからである。

小学生の頃、ブスでチビで運動音痴で口下手という負の四十奏を背負っていた私は、小学生の無邪気で可愛い子供達に盛大に虐められた。

 

うわばきの中に画鋲を入れられる、靴を隠される、私を挟んでキャッチボールして、私の頭に当たったら10点、学級委員選挙でクラス全員で私と、同じく虐められていた男子の名前を書く…

 

もっと酷いいじめを受けた人は腐るほどいると思うし、このくらいで音をあげるのは私の弱さである。

 

しかしながら、こんな日々を送ってきた私にとって、子供は恐怖でしかない。

みんなが可愛いと愛でる子供たちの無邪気な声は、私にとっては鬼が騒いでいるようにしか聞こえない。

 

例えばこんな私が子供を作ったとして、その子供が誰かに虐められてつらい思いをするのではないか。

逆に、誰かに心ない虐めをして傷つけてしまうのではないか。

そんな心配がよぎってしまってとてもじゃないが、子供を作りたいなんて思えないのだ。

 

子供が可愛いと思える人たちは、心が綺麗だと思う。

素敵な子供時代を過ごせていたのだろうし、もしそうでなくても、つらい過去を繰り返さない自信のあるキラキラした人たちなんだと思う。

 

あの頃から10年以上経つ今でも、私はトラウマから立ち直ることができない。

自分の遺伝子に自信がないし、どれだけつらいことがあるか分からない人生の波間にまた一人私のエゴで放り込んでいいものか、迷ってしまう。

 

子供が欲しくないのは、冷たい人間だからではない。むしろ、多くの人間の冷たさを知ったからこその防衛策なのだ。

 

ただただ、私は素直に人間の本能的欲求に従える人たちを羨ましく思っている。

 

 

 

 

 

 

暗い人間はどう振る舞えばいいのか

 

私は元来の暗い人間である。

 

毎日、自分の人生の価値について考えては病んでいる。

 

そして。生きてる価値なんてないと思いつつも、死ぬことも本当に絶望することもできず、なんとなく人生を歩んでいるような甘ったれである。

 

こういうの、調べたら気分変調障害っていうらしい。

診断もらったわけじゃないんだけどね。

 

で、こんな鬱人間が、一般社会で人生観を本音で語ってしまったとしたらどうなるか。

 

おそらく良くて村八分、悪くて虐められると思う。

 

人付き合いなんてくだらないと思ってるくせして、そういうのはちょっと怖い。

さみしいし、何か困った時に、頼れる人がいなくなるのも怖い。

 

完全なるヘタレである。

 

私はこんな自分が大嫌いだし、死んだほうがいいと思ってる。

 

現実社会でメンヘラを言葉に出すような人間が私の他にいたとして、関わりたいとは思えない。

 

なので猫をかぶる。ニコニコ笑顔で、

 

「私は病んでいませんよー、毎日それなりにたのしいですよー」

 

みたいなのを演出する。

テーマパークは嫌いだし、子供も嫌いだけど、女としてそれはまずいから好きなふりをする。

インスタのいいね稼ぎのためにお洒落なカフェに行くなんてくだらねえわと思いつつ、観覧して興味のあるふりをする。

 

想像してみてほしい、これが結構つらいんだ。

全く興味のないことに興味を持つふりをし続けろというのは、結構酷なんだよ。

 

だから、私の人間関係はうわべだけに尽きる。

プライベートで遊んだりとか、断ることも多い。

 

なぜならメンヘラな性格がバレてドン引きされるリスクがあるからだ。

 

いくら合わせているつもりでも、ボロが出てきてしまうことってあるのだ。

正確に言うと、私が「みんなもそう思うでしょ?」って思っていたことが、そうじゃないってことだ。

私の何気ない発言に対して、

 

「え、なんでそんなに卑屈に考えるの…?」

 

って言われたことがあるから。実際に。

 

こんなんだから、友達は少ない。

メンヘラで暗い性格のやつは、このくらい自分を抑えて謙虚に生きるしかない。

 

これが私が短い人生で考えた唯一の人付き合い方法である。

 

ああ、さみしい…

 

 

 

特別であることについて

 

 

生きている価値がある、意味があるとはどういうことだろう。

 

 

何かを誰かに残し、誰かに認められることだろうか。

 

誰か大勢の人にあなたがいて良かったと、特別な人だと思ってもらえることだろうか。

 

 

そもそも特別な人ってなんだろうか。

 

 

芸能人は特別な人だと思っていた。

彼らはみんなに求められている。価値のある人間なんだと思う。

 

その一方で、少し人気が陰ると一気に忘れられていく、嘘のように、本当に忘れられていくのだ。

 

果たしてそれは特別と言えるのだろうか。

本当に特別ならば、いつまでも唯一の人として存在できるはずではないのか。

 

そう仮定するなら、今でも生き残っている昭和のスターは特別だろうか。

彼らはいつまでも忘れられることなく、テレビに君臨しているように見える。

 

本当にそうだろうか。

 

昭和の時代に生きていた人間にとっては彼らは特別かもしれない。青春を共に生きたかけがえのない存在なのかもしれない。

しかし、平成生まれにとっては、

 

 

「なんかへんなおばさんをおじさんたちが崇めているぞ?!」

 

「どうした?!どうした?!????」

 

くらいの感じではないのか。

だとしたら、彼らもやっぱり、昭和の人間とともに忘れられていくだけ、ちょっと顔が広いだけの凡人ではないのか。

 

 

特別というのは、ほとんど成り立たないような気がする。

 

 

親は子供にとっては特別であり、ある人は誰かにとって特別な友達、恋人であるかもしれない。

 

しかし彼らがみんな死んでしまえば、自分が自分として生きている理由などどこにも見当たらないんじゃないのか。

 

アイデンティティなどまるで意味をなさないんじゃないのか。

 

だとしたら、人間は承認欲求など起こさずに、セミのように、生まれて子孫を残して死んでいくだけでいいんじゃないのか。

 

いや、そもそもどうせ子孫だっていつか死ぬのになんで残すのか。

 

深く考えていくと、本当に生きる理由が見当たらなくなって来る。

 

かといって、数少ないながらも自分を惜しんでくれる人がいるにもかかわらず、わざわざ死ぬという選択肢も取れない。

 

ばかじゃないのかと思う。なんだかとてもみじめだなぁと思う。

 

生きることってどんなに考えてみても、ずっと結論が見えない。

 

 

生きてる価値なんて、どこにも、誰にもないのかもしれない。